Masuk――それは、遡ること十数時間前――
「ええっ、今の会社をクビになるかもしれない!? そんな急に、いったいどうして?」 私は目の前にいる恋人、守里《もりさと》 流《ながれ》の話を聞いて驚きを隠せないでいた。 彼は一流企業、神楽《かぐら》グループの正社員で営業成績も優秀だと聞いている。そんな流がいきなり会社から解雇だなんて、どうして……? すると彼は顔を上げて申し訳なさそうに私を見つめた後、その理由をポツポツと話し始めた。 「神楽グループには御曹司である神楽 朝陽《あさひ》という男がいるんだが、そいつがちょっと厄介な人物でさ。その……御曹司という立場もあって、とにかく女性問題が絶えないとは聞いていたんだけど」 「……なに、それ? その人の女性関係がどう関係あるのか、ちょっと私には分からないのだけど」 神楽グループには次期代表取締役と言われる、御曹司の神楽 朝陽という男性がいることは私だって知っている。 彼はテレビやラジオでもイケメン御曹司と持て囃され、忙しい毎日を送っているとミーハーな同僚たちから聞いたこともあった。 ……だけどその御曹司の女性関係と流の解雇、そこにいったいどんな関係があるというのだろうか? 「その御曹司の起こした女性問題を、俺がやった事にされて。責任を取って、その女性と結婚の約束までさせられたんだ。そうしなきゃ、その問題を理由に解雇するって脅されて……俺、いつの間にかそいつに目を付けられてたみたいでさ」 そう流は説明してくれるが……どういう理由でそうなったかもよく分からないし、なぜそれが流である必要があるのかもハッキリしない。 それなのに休む暇なく言葉を続ける彼に圧倒され、理解出来ないまま話が進んでいく。 「だから俺もどうしていいか悩んで、凄く辛くてさ……」 「でも、流は優秀な営業だって言ってたじゃない? いつも成績だってトップなんだって、それなのに解雇なんて……そんなの、どう考えてもおかしいでしょう?」 「そうなんだけど、あの男は普通じゃない事を言い出すような奴なんだよ! だからごめん、鈴凪《すずな》。俺、お前と約束していた結婚は出来そうにない。申し訳ないけれど、今日を最後に別れてくれ!」 ……は? どこがどうなって、私と流の婚約が白紙にされるのか全く意味が分からない。 第一に流《ながれ》は自分は解雇される事が決定したように話をしていくるのだけれども。営業成績がトップだという彼を、そんなアッサリとクビにしようとする会社が本当にあるのだろうか? 流の話す神楽 朝陽の【女性問題】というのも、曖昧過ぎてどういうことか分からない。とてもじゃないが、納得のいく答えにはなっていない。 それなのに、流は…… 「だって仕方ないだろ? 会社をクビになったら鈴凪《すずな》との結婚どころの話じゃない」 「それなら再就職先を探して、それからでも……」 仕事と私どっちが大事なの? なんて天秤にかけたことはないけれど、今の流の言い方では私より仕事の方が大事だと言われた気がしてちょっと悲しくなる。 だけど流はそんな私の気持ちにお構いなしで、一方的な言葉でこの関係を終わらせようとする。二人の婚約については、お互いの両親にも挨拶して許しを得ていたはずなのに。 「そんな先のことなんて話されても重荷なんだ! 俺が会社をクビになるかの瀬戸際なのに、お前はさっきから自分の事ばかりで。少しは俺の立場も考えてくれ!」 「そんな、流!? ちょっと待ってよ、流っ!」 結局……彼はその御曹司とやらの女性問題や自身の解雇について明確な説明をしないまま、話は終わりとばかりに私の部屋から出て行ったのだった。 つまり私は、流の仕事にというか……よく知りもしない神楽グループの御曹司の存在によって、数年付き合って決まったはずの婚約も破棄をされてしまったらしい。 ……と、まあ。この時の私は、婚約者だった流の話をこれっぽっちも疑ってはいなかったのだけど。「……なるほど、それは大変でしたね。まあ朝陽《あさひ》もかなり浮かれているのでしょうから、少しだけ大目に見てあげてください」 いつものように会社へと向かう途中、昨日と一昨日の事を白澤《しらさわ》さんに話をしたのだけど。彼はその様子を想像したのだろう、普段よりほんの少しだけ口元が緩んでいるように見えた。 朝陽さんとは長い付き合いの白澤さんからみても、かなり珍しい事らしいけど……流石に限度があります、くらいは言いたかったが我慢する。「嬉しいんですよ、もちろん。だけど……朝陽さんみたいな素敵な人にここまでしてもらっていいのかなって、そんな気持ちにもなるんです」「私からすれば、鈴凪《すずな》さんの方が朝陽には勿体ないくらいの女性だと思ってたりしますけどね。以前も言いましたが、貴女はもっと自分に自信を持ってください」 白澤さんは朝陽さんとはまた違う真っすぐさがある、そんな彼の言葉は嘘や偽りがなく心にスッとしみ込んでくるのだ。 決して口数の多い人ではないけれど、優しさを含んだその言い方にじんわりと胸が温かくなる。「そうでしたね、自信を持つって意外と難しくて。でも白澤さんや朝陽さんが私を認めてくれるので、少しずつですけど自分の事が好きになれてきてるんです」 これは本当の事。元彼の事で自信も無くして、自分の事が嫌いになってしまった時もあったけれど……流《ながれ》と交際していた時よりも、今の自分の方がずっと好きだ。 それは周りの人が、私を……雨宮《あまみや》 鈴凪という人間を受け入れてくれるからなのだと思えて。「それならば良かったです。ああ、そういえば……昨夜、紫苑《しおん》から人形の直しが終わったので迎えに来て欲しいと」「――え! シオさんから連絡があったんですか!?」 いきなりシオさんの名前が出て、少し驚いたのだけど。それにしてもあれだけ傷が付けられていたのに、もう全部直し終わったなんて凄い。 すぐにでも迎えに行きたい気持ちではあるが、これから仕事だしいつなら時間が作れるかと考えていると……「今日の仕事終わりに迎えに行きますか? 朝陽には私から連絡しておきますし、彼のマンションまではきちんと送りますので」「えっ、いいんですか!」 白澤さんからの提案に私は迷うことなく頷いて、自分からも朝陽さんに『シオさんの所に寄って返ります』とメッセージを送ってお
「朝陽《あさひ》様、雨宮《あまみや》様。ようこそお越しくださいました。打ち合わせの用意は出来てますので、どうぞそちらの部屋にお入りください」「ああ、ギリギリの時間になってすまなかった。さあ早速、結婚式の細かい打ち合わせに入ろうか」 朝陽さんはいつもの爽やかな笑顔でそう話しているが、このホテルに到着したのは本当についさっきで。もし間に合わなかったらどうしようかと、こっちはハラハラしていたのに。 彼が時間を短縮する為と言ったから二人でお風呂に入ったはずなのに、逆に遅刻しかける羽目になるなんて……朝陽さんの言葉を信じちゃダメな時があるのだと、今回の件でよく分かったわ。 それにしても……「あの、私達って本当にこのホテルで結婚式を挙げるんですよね?」「この前、軽く説明しただろう。ここは神楽《かぐら》グループのホテルでそれなりに融通もきくんだ、もしかして鈴凪《すずな》はどこか不満があるのか?」 朝陽さんが心配して聞いてくれているのは分かる。でも私が感じているのは真逆の事だったりするので、そのまま伝えていいのか戸惑ってしまう。 だけどそれを言わなければ、このまま朝陽さんが納得しないのも分かっているから。「いえ、その……不満というよりあまりにも自分には不相応な気がして」「不相応? いいか、鈴凪は俺の愛され花嫁になるんだ。だからこそもっと自信を持って、堂々と俺の隣に立って欲しい」 私があまり自分に自信が無い事を彼は理解していて、こうやって何度も特別な存在だと言葉にしてくれるのだけど。 せめて私が……鵜野宮《うのみや》さんのような気品や女性としての魅力があれば、そう考えてしまって。「結婚式で俺が見たいのは鈴凪の花嫁姿だけだ、俺の生涯の伴侶としてのな」「……はい」 いやいや、それもどうかと思うんですけれど? でもハッキリとそんな風に言ってくれるのは有難い、そんな朝陽さんの言葉によって私は勇気を出すことが出来るのだから。嬉しくて彼に少しだけ甘えるように擦り寄っていると。「……あの、そろそろお式の説明をさせて頂いても?」「――あっ! すみません、どうぞお願いします!」 いつの間にか部屋の入って来ていた担当のスタッフに声をかけられ、私は焦って朝陽さんとの距離を取る。間違いなくノックはされたはずなのに、私達は完全に二人の世界を作ってしまっていたようで。
「……もう、信じられない。今日は式場での打ち合わせやドレス選びがあるからって、あれほど言ったのに」 まだ身体がダル重くて起き上がる事もままならない状態だ、家を出る時間まであと一時間半しかないと言うのに。恨みがましい目を向けても、私をこうした張本人はそれは機嫌良さげに目を細めてこっちを見ているだけ。 濃密で甘い極上の一夜を過ごしたとはいえ、経験したことないほど長い時間肌を重ねあったためか私の身体は悲鳴をあげていて。今もケロッとしている朝陽《あさひ》さんは、とんでもない人だと思ってしまう。「そう文句を言うが、そもそも鈴凪《すずな》が散々俺を煽ったんだろう? まあ……理性を飛ばしかけて、一番中お前を抱き潰したのは悪かったと思うけど」「そ、それはっ! 朝陽さんが、あんな風に私に意地悪をするから……」 それ以上は恥ずかしくて言葉を濁すしかない、昨夜の自分の痴態はとても口に出来るような内容ではなかったから。朝陽さんにずっと焦らされて我慢出来なくなった私が、どんな風に彼に強請ったかなんて思い出しかけただけで憤死しそう。 そんな意地悪で私が恥ずかしがったり戸惑って悩む姿を、彼は喜んで何度も見たがるとんでもないドS御曹司なんだもの。「……鈴凪が本気で嫌だと思っているのなら止める。その時の顔が可愛いと思っているのは本当だが、お前が辛いと感じていることをやりたいわけじゃないから」「嫌、なわけではないですけど。少しは手加減して欲しいかな、っては思ってます」 ……私だって本当は分かってる。朝陽さんがそれだけ私を想ってくれてるからこそ、その行為がとても濃密であることも。 でも次の日に大事な用事があるってことは事前に分かっていたのだから、その事に関しては少しくらい文句も言ってやりたくなるのだ。「まあ、ずっとこのままってわけにもいかないよな。風呂にも入らなければいけないし、それに時間もないから……よっと」「――え? きゃあああ!」 急に脇と膝下に手を入れられて、そのまま朝陽さんに軽々と抱き抱えられてしまう。スーツの上からだとスマートに見えていた彼だが、実は意外と筋肉がついていて腕力もそれなりにあったりするのだ。 私を抱えたままズンズンと浴室に向かって歩いて行く朝陽さん、コレはもしかして……?「いいよな、一緒に風呂に入っても? 鈴凪はまだ辛そうだし俺が洗ってやるから」
「月子《つきこ》さんって私が想像してたより、本当はずっと強い女性なんだと思いました。それに最後は朝陽《あさひ》さんのお父さんが全く反論出来なくなってて、胸がスッキリしちゃったくらいで」 朝陽さんと二人でマンションへと帰るタクシーの中、先ほどまでの出来事を思い出し笑ってしまう。きちんと私達の結婚を認めてもらえたし、両親の夫婦の仲もきっと改善されるんじゃないかと思えて。 それにサチさんもその様子を満足そうに見た後、迎えに来た男性と一緒に帰っていったから。「ああ、あれが本来の母の姿なんだって俺も初めて知った。鈴凪《すずな》やサチおばあさまがあの人を勇気付けてくれた、それも大きな理由だと思う。本当にありがとう……」「お礼を言われるような事はしてません、私は朝陽さんや貴方の大切な人の力になれたらいいんです。ただの自己満足、やりたい事をしてるだけなんだから」 そう、これは私やサチさんが望んでやったことに過ぎない。今はまだ神楽《かぐら》の一員にでもない私に、こうして発言させてもらえただけでも十分だった。 何かの役に立てたかなんて、私自身はあまり深く考えてなかったし。「……鈴凪のそういうところに俺は凄く救われている、最初に会った時は猪突猛進なとんでもない奴だって思ってたのにな」「朝陽さん、それはもうそろそろ忘れてもらえませんか? 私はあの日を思い出すだけで顔から火が出そうになるんですけど」 この話をされる度に思い出しては恥ずかしさで埋まりたくなるくらいなのに、繰り返す朝陽さんって本当に意地悪だと思う。 確かにあんな出会い方をしなければ、きっと二度と会う機会は無かっただろうけれど。「忘れられないだろ、衝撃的過ぎて。それにお前との出会いは、俺にとっては大切な思い出でもあるんだし?」「……その言い方は、もの凄く狡いと思います」 朝陽さんはいつも、意地悪の後にこうやって甘い言葉で私を困らせる。私がそれに戸惑って恥ずかしがるとこまで、全部理解した上でやってる事もちゃんと知ってるんだから。「そうやってちょっとした言葉でテレるとこも、俺は結構好きなんだよな? 鈴凪のその顔が見たくて、つい苛めてしまいたくなる」「やっぱり朝陽さんはドS御曹司じゃないですか……!」 ここはタクシーの中で、この会話は運転手にだって聞こえてるって分かってるくせに! 聞いてないフリをしてく
そう言った月子《つきこ》さんの表情はほんの少し悲し気で。しかも今まで伝えらずにいた事を全部吐き出したためか、その細い身体は若干ふらついていた。 私はすぐに彼女の傍に行き、自分の右腕をそっと差し出して。「月子さん、大丈夫ですか? もし良ければ、私の腕に掴まっていてくださいね」「……ありがとう、鈴凪《すずな》さん。貴女と朝陽《あさひ》のおかげで、私もこうして勇気が出せたわ」 普段は夫の言いなりだったであろう彼女にとって、これはかなりの覚悟と勇気が必要だったはず。それでも朝陽さんや私のため、そして月子さん自身の為に頑張ってくれたのだと分かる。 言いたい事をハッキリと告げる事の出来た彼女とは正反対に、夫である幹臣《みきおみ》さんはショックを隠せないまま唇を震わせていた。「……どうしてだ、月子。お前には神楽《かぐら》の嫁として何不自由ない生活をさせてきただろう、なのに何が不満だったと言うんだ?」「二十年以上も私の意見は一つも聞いてもらえない、そんな中でいったい何が自由だというのですか?」 その言葉の意味は身内でなくても分かることで、どれだけ月子さんが抑圧された中で暮らしてきたかも想像がついた。朝陽さんが笑顔を見たことが無いというのも、これなら納得がいく。 だけど意外だったのは……驚くほど夫である幹臣さんが、彼女の言葉にガックリと肩を落とした事で。朝陽さんのどんな言葉にも強気な対応だったのに、今は別人のように真っ青な顔をしているから。「私はこれから先、私達夫婦の形を話し合う必要があるのではないかと思っています」「なんだと、月子? それは、まさか……」 分かりやすい程に焦った様子を見せる幹臣さんだったが、逆に月子さんは落ち着いていた。 きっとこの人は二十年間ずっと妻の言葉に耳を傾けなかったのに、彼女がいなくなるかもしれない日が来ることは想像もしなかったのでしょうね。月子さんの気持ちや意見を見落として、信用や愛情を失うまで気付かないなんて……「この話はまた二人の時にしましょう、今日は朝陽と鈴凪さんの事を優先したいので」「……分かった」 それからは月子さんやサチさんのフォローもあって、最後には幹臣さんにも私達の婚約を無事に認めてもらうことが出来た。 特に後半は月子さんのペースで、もしかしたらこれから幹臣さんは彼女に頭が上がらなくなるのではないかと
月子《つきこ》さんがずっと隠してきた自身の本心をハッキリと告げた。その事は朝陽《あさひ》さんやサチさんを凄く喜ばせたが、夫である幹臣《みきおみ》さんの反応だけが全く違っていて。 ブルブルと固く握った拳を震わせ、顔色からもハッキリと分かるほどに怒っているのは間違いない。「お、お前達は本気でそんな事を言ってるのか!? この先、神楽《かぐら》の家やグループがどうなっても良いと……」 どうしてこういう時だけこの人は、神楽に関わる事の責任を周りの所為にしようとするのだろう? 自分の言う事を聞かせるために、企業や家の事を都合良く使っているだけじゃないの。 けれども彼のそんな言葉にも、今の朝陽さん達は全く揺らがない。「ええ。少なくとも俺は本気ですよ、最初から鈴凪《すずな》の事と別にこの話もするつもりで来ましたから」「私も今までお前に好き勝手にさせ過ぎたと反省してます。今日の事は貴方の父親にも伝えるつもりですし、私も神楽には新しい風を入れるべきだと思いますから」 真っ向から自分たちの意見を言えるこの二人はやっぱり凄いと思う。 ……でも朝陽さんも少しくらいは私にも話しておいて欲しかったな、と思ってしまったり。私は神楽の事に口を出せないから仕方ないのだけど、僅かでもいいから力になりたいのに。 だけれど今はそれどころではない、朝陽さんとサチさんの隣に一歩踏み出た月子さんも覚悟を決めたような表情で口を開く。「……幹臣さん、私はずっと貴方を陰で支えているつもりでした。私の意見を聞いてもらえてなくても、それは伝わってると信じて。でも、もう慎ましやかで良い妻なんてやめますから」「――!! 月子まで、いったいどうしたって言うんだ? いままでずっと大人しく立場を弁えた妻だっただろう、何故いきなりそんな事を」 意外な事に朝陽さんのお父さんは、妻である月子さんの発言に一番ショックを受けているように見えた。だけど……逆にどれだけこの人が、月子さんをきちんと見てなかったことが分かるだけで。「夫である貴方がそうさせていた、の間違いではないですか? これは本当の母だった、俺はそう思いますけれど」「そうね、私もずっと勘違いしていたわ。月子さんはこんなにハッキリと自分の意見が言える人だったのね」 朝陽さんだって、夫の言いなりになる母よりも今の月子さんの方がずっと良く感じてるはず。サ







